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第7官界彷徨

第7官界彷徨

上野誠先生の万葉集その2

2011年11月27日
 橋本治の桃尻語訳百人一首によれば、ミスター万葉集、家持くんの歌は
*かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞ更けにける
桃尻語訳*かささぎの懸けた銀河にきらきらと霜が光れば今は真夜中

 今週のNHKラジオ第2放送、古典講読の時間、上野誠先生の万葉集は、家持くんの恋人の歌でした。万葉集って、本当の恋愛じゃなくてたくさんの読み手を意識して、の疑似恋愛の相聞も多いようですが、これは編集者家持くんが、本当に保管していたものらしく、恋の初めから終わりまでが24首の歌になって残っているらしい。

 時は天平4年(732年)笠郎女(笠家のお嬢さん)
587番
*わが形見見つつ偲ばせあらたまの年の緒長く吾も偲ばむ
(プレゼントを見て私を偲んでね。私もずっと思い続けますから)

590番
*あらたまの年の経ぬれば今しはとゆめよわが夫子わが名告らすな
(おついきあいして年が経ったからといって、私の名前を人に言わないでね。
 郎女は、関係は継続させたいが、人の噂になっては困ると思っている)

591番
*吾が念ひを人に知るれや玉くしげ開き明けつと夢にし見ゆる
(私の恋は人に知られてしまったらしい。二人の間は、だめになるかもしれない)

594番
*わが屋戸の暮陰草の白露の消ぬがにもとな念ほゆるかも
(私の庭に夕方の光に見える草の露のように、消えそうなわたし、、、)

599番
*朝霧のおほに相見し人ゆえに命死ぬべく恋ひ渡るかも
(朝霧のようにぼんやりと会った人だからこそ、死ぬほど激しく恋しく思うのです)

600番
*伊勢の海の磯もとどろに寄する浪かしこき人に恋ひ渡るかも
(伊勢の海の大きな浪のような、恐れ多い人に恋をしているのです)
(笠郎女から見ると、はるかに身分が高い家持くんだった。身分差が恋の障壁になったらしい)

601番
*こころゆも吾は念はざりき山河も隔たらなくにかく恋ひむとは
(思ってもみなかった、山も川も隔てていないのに、こんなに恋しく思うなんて)

602番
*夕さればもの念ひ溢る見し人の言問ふすがた面影にして
(夕方になると、お会いした時のあなたの何かをおっしゃる姿が浮かんで来ます)

603番
*念ふにし死にするものにあらませば千遍ぞ吾は死にかへらまし
(人を思う度に死ぬのだったら、私は千回も死んで生き返ったといえるのでしょう)

607番
*皆人を寝よとの鐘は打ちつれど君をし念へば寝ねがてぬかも
(平城京の時の鐘が寝る時間だと打たれているけれど、、、、)

608番
*相念はぬ人を思ふは大寺の餓鬼の後へに額ずくがごと
(片思いの人を思うのは、大寺の仏様ではなくて餓鬼の、それも後ろから拝んでいるようなものですね。拝んでも聞いてはくれません=追いつめられた笠郎女)

 そして破局。別れたのちに贈って来た歌という説明つきの歌、2首
609番
*情(こころ)ゆも我は念はざりき又更にわが故郷に還り来むとは
(郎女にとっては、別れさせられての不本意な帰郷)

610番
*近くあれば見ねどもあるを いや遠に君しいませばありかつましじ
(近くにいればまだしも会わなくてもいられるのに、遠く離れては生きていけそうにありません)

 その次に家持くんの反省の歌が2首あります。
 自分の歌は、下書きをとっておいたらしい。
 他にもいろいろな女性たちと交わした歌が残っていて、今の私たちにその頃の息吹を伝えてくれるのです。

2011年12月4日
今週のNHKラジオ第2放送、上野誠先生の「万葉集ーたましいの宿る言葉」は、読み人知らずの恋の歌でした。
 万葉集の恋の歌(総聞)は、風と雨が小道具になっているそうです。今まで知らなかったけど、いい歌がいっぱい。

春の相聞
1915番
*わが夫子に恋ひて術なみ春雨の降る別知らにいでて来しかも
(あの人が恋しくて雨が降っているかどうかも分からずに雨の中を飛び出して来てしまった)

 この歌の判断は、時代時代の読み手によって違い、江戸時代の学者は、この作者は男でないとおかしいとしたが、現代では女でもおかしくないとしているそうです。万葉時代は現代に近い感覚らしい。

1916番
*今更に君はい行かじ春雨の情を人に人の知らざらなくに
(今更あなたは帰っていかないでしょうね。春雨は私の心を知らないはずはありませんから=雨で男は足止めされている)

1917番
*春雨に衣はいたく通らめや七日し降らば七日来じとや
(温かい春雨は衣を通すほど降りはしないのに7日降ったら7日来ないつもりなの?)

1918番
*梅の花散らす春雨さはに降る旅にや君が庵せるらむ
(梅の頃だから、まだ冷たい春雨が花を散らすほど降っている。旅のあなたは仮の庵で濡れてないかしら?)

秋の相聞より
風に寄する
2260番
*我妹子は衣にあらなむ秋風の寒きこの頃下に着ましを
(私の恋人は衣だったらなあ。秋風の寒い今だったら下着のように肌を合わせていたい。それに人に秘密でいられるし)

2261番
*泊瀬風かく吹く宵は何時までか衣片敷きわがひとり寝む
(寒い夕方は特に人恋しくなるのさ)

雨に寄する
2262番
*秋芽子を散らす長雨の降る頃はひとり起き居て恋ふる夜ぞ多き
(この季節は農繁期で、男女それぞれが働きに出て会えない事が多かったらしい)

2263番
*九月(ながつき)の時雨の雨の山霧のいぶせきわが胸誰を見ば息まむ
(長月の山霧のような胸のもやもや、誰に会ったら霧は晴れるのかしら?)

夜に寄する
2350番
*あしひきの山の嵐は吹かねども君なき夕はかねて寒しも

☆こんなに率直に的確に思いを詠えるって、すごい実力の万葉歌人たちです!

 
2011年12月11日
今週のNHKラジオ古典講読の時間の、上野誠先生の万葉集は、万葉集の3つの部だてのひとつ、挽歌です。挽というのは「引く」という意味で「棺を挽く」時の歌らしい。

 671年の12月に天智天皇が崩御するのですが、その危篤から葬送の後までを、後宮の女性たちの9首の歌になって載せられてあります。
 近江朝挽歌とか天智天皇挽歌群と呼ばれて有名です。

 近江の大津の宮に天の下知らしめしし天皇の代
 天皇が病をえた時に皇后の倭姫の作ったうた
147番
*天の原ふりさけ見れば大王の御いのちは長く天足らしたり
(天空世界を見れば、大王の命は長く天に満ち満ちています。言葉の力で快癒を祈りたてまつる)

 天皇は九月に病重くなり、(本当はわが子大友皇子を天皇にしたい心を隠し)10月19日に弟である皇太子の大海人皇子に、皇位の継承を言うが、大海人は固辞して出家して吉野に隠遁してしまう。

 12月3日、天智天皇崩御。46歳。

148番  倭姫のうた
*青旗の木旗の上を通ふとは目には見れども直に逢はぬかも
(飛鳥から大津に都を移した天智天皇の魂が、中間の木旗(宇治~伏見あたり)の上を行き来しているのが分かるけれども直接お会いする事はできないで)

149番   崩御直後の倭姫のうた
*人はよし思ひ止むとも玉かづら影に見えつつ忘らえぬかも
(他の人は思うのをやめてしまうかもしれないけれど、私は忘れる事ができません=他の女性たちへの皇后の自負)

150番   おみなめのうた
*うつせみし 神に堪へねば 離り居て 朝嘆く君 放り居て わが恋ふる君
 玉ならば 手に卷き持ちて 衣ならば 脱ぐ時もなく わが恋ふる 
 君ぞ昨の夜 夢に見えつる
(現実に生きている私。恋しいあなたが、昨夜の夢に見えました)

天皇崩御後、未だ葬らざる時に 額田王のうた
151番    
*かからむの懐知りせば大御船泊てし泊に注連結はましを
(前々から分かっていたのなら、船の泊まりに縄を張ってそこから先に行けないようにしたものを)
152番
*やすみししわご大王の大御船待ちか恋ふらむ志賀の辛崎

154番   石川夫人のうた
*さざ浪の大山守は誰がためか山に標縄結ふ君もあらなくに
(琵琶湖の南、大山の守は山にしめ縄を結う、君はもういないのに)

天皇の山科の御陵から退散の時に 
154番     額田王のうた
*やすみしし わご大王の かしこきや 御陵仕ふる 山科の 鏡の山に
 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭のみを 哭きつつありてや
 ももしきの 大宮人は 去き別れなむ

 太古の葬送のドラマですね。ちなみに、今日12月11日は、旧暦の11月17日。
 天智天皇崩御の12月3日は、今の暦では12月23日になります。

2011年12月18日
 日並皇子は、天武天皇の第2皇子の草壁皇子です。天武天皇亡き後、皇太子として次の天皇になるべき日並皇子が亡くなります。
 柿本人麻呂の長歌。(よそさまのコピー)
167番
【日並皇子(ひなみしのみこ)殯宮(ひんきゅう)挽歌】
天地(あめつち)の 初めの時 ひさかたの 天(あま)の河原に 八百万 千万(ちよろず)神の 神集(かむつど)ひ 集ひいまして 神(かむ)分かち 分かちし時に 天照らす 日女(ひるめ)の命(みこと) 天(あめ)をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂(みづほ)の国を 天地の 寄り合ひの極み 知らしめす 神の命と 天雲(あまくも)の 八重(やへ)かき別けて 神下し いませまつりし 高照らす 日(ひ)の御子(みこ)は 明日香(あすか)の 清御原(きよみはら)の宮に 神(かむ)ながら 太敷(ふとし)きまして すめろきの 敷きます国と 天(あま)の原 岩戸を開き 神上がり 上がりいましぬ 我が大君 皇子(みこ)の命の 天(あめ)の下 知らしめす世は 春花の 貴(たふと)くあらむと 望月(もちづき)の 満(たたは)しけむと 天の下 四方(よも)の人の 大船(おおぶね)の 思ひ頼みて 天(あま)つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき 真弓の岡に 宮柱(みやばしら) 太敷きいまし みあらかを 高知りまして 朝言(あさこと)に 御言(みこと)問はさぬ 日月(ひつき)の 数多(まね)くなりぬれ そこ故に 皇子の宮人 ゆくへ知らずも

 (神話から壬申の乱をへて、飛鳥に立派な都を作った天武天皇、その子であり、天照大神にも並ぶ皇子が亡くなってしまった、、、。
 朝になっても言葉を言わないで月日がたって、仕える宮人たちも途方にくれています。)

反歌
168番
*ひさかたの 天見るごとく 仰ぎ見し 皇子の御門の 荒れまく惜しも
(皇子が亡くなってしまったので、宮殿さえも荒れて見えるのが哀しい)
169番
*あかねさす 日は照らせれど ぬばたまの 夜(よ)渡る月の 隠(かく)らく惜しも
(日は照っているけれど、夜渡る月が隠れてしまうのが惜しい=死を受入れた心境)

或る本に、高市皇子の歌として
170番
*島の宮勾りの池の放ち鳥人目に恋ひて池に潜かず
(日並皇子の庭に飼っている鳥たちも、皇子を慕って池にもぐろうともしない)

 そして、日並皇子に仕えた舎人たちの哀悼の歌が23首続きます。
171番
*高光るわが日の皇子の萬代に国知らさまし島の宮はも
(この島の宮から即位なさるはずだった皇子だたtのに、、、)
190番
*真木柱太き心はありしかどこのわが心しづめかねつも
(強い心をもっているはずの自分なのに深い悲しみの心は鎮められない)
193番
*奴らが夜昼といはず行く路を我はことごと宮道にする
(真弓の岡に皇子の遺体は安置され、古墳ができるまでそこが宮となるので、毎日その宮に通って行くのだ)

 日本書紀によれば、これは持統3年(689年)のことだったそうです。

2011年12月25日
 挽歌の中でも特殊な「行路死」の人を詠ったもの。

遣新羅使の旅の途中で、壱岐の島で「雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)鬼病で死亡した時の歌)
3688番
*天皇の 遠の朝廷と から国に 渡るわが夫は 家人の 齋ひ待たねか 正身かも 過しけむ
 秋さらば 帰りまさむと たらちねの 母に申して 時も過ぎ 月も経ぬれば 今日か来む
 明日かも来むと 家人は 待ち恋ふらむに 遠の国 いまだも 著かず 大和をも 遠く離りて
 石が根の 荒き島根に 宿りする 君

3689番 (反歌)
*石田野に宿りする君 家人のいづらと我を問はばいかに言はむ
(帰って報告した時に、君がどこにいるのかと聞かれたら、何と答えよう)

3690癌
*世の中は常かくのみと別れぬる君のやもとな吾が恋ひ行かむ
「世の中はこんなもんだね」と言って死んでしまった君。ずっと忘れないよ)

次に聖徳太子の作ったといわれる歌。巻3の挽歌。
 聖徳太子が、龍田山の死人を見て悲しんで作った歌とのことです。
415番
*家にあらば妹が手捲かむ草枕旅に臥せるこの旅人あはれ
(家に板なら、恋人の手枕で寝ていただろうに、旅先で倒れたこの旅人は哀れである)

 これは、聖徳太子の慈悲心を讃える歌として載っているらしい。
 古事記は推古時代が最後であり、この話は日本書紀に記述があり、

行き倒れの旅人を見て、聖徳太子のしたことは
その1=姓名を問う(相手を尊重する)
その2=食事を与える(生命の危機を救う)
その3=自分の衣服を脱いで与える(思いやりの心)
その4=歌を詠み与える(声ー言葉を通して相手の心を癒す) 
   
 この話には後日譚が載っていて
 太子が「あの旅人は神人である。行ってみて来るように」というので、家来が見に行ったところ、死体はなく、墓地に太子の着物のみが残されていた?
 太子は「困窮者を助けるのは、すなわち神仏を助けることである」と人々に語ったそうです。

 人々は「聖の聖を知ることは本当だったのだ」と、太子の徳をますます崇めたとのことです。
(日本書紀のお話ね!「日出処天子」のうまやどとは、とはイメージちゃいますねん!)

 ではまた来週!
 
2012年1月8日
 今週のNHKラジオ第2放送、古典講読の時間の上野誠先生の「万葉集」は、大伴家持と弟の書持の歌でした。
 家持は万葉集の編纂をした人で、後半は家持関係の歌が多いのですね。

 万葉集の17巻以降は家持の手記を基にしたものらしい。(これは、昔の教科書にメモしてあった。覚えてないけど)

1477番 家持くんのうた
*卯の花もいまだ咲かねばほととぎす佐保の山辺に来鳴きとよもす
(卯の花がまだ咲いていないのに)
1478番
*わがにわの花橘の何時しかも珠に貫くべくその実成りなむ
(庭を楽しみ四季の移り変わりを楽しむ文化)
1479番
*隠りのみ居ればいぶせみ慰むといで立ち開けば来鳴くひぐらし
(引きこもっていると気が塞ぐので、外に出たら蜩が鳴いている)

家持の弟の風流人、書持(ふみもち)くんのうた
1480番
*わが屋戸に月おし照れりほととぎす心ある今夜来鳴きとよもせ
(月がこんなにきれいだから、ほととぎすよ来て鳴いておくれ)
1481番
*わがにわの花橘にほととぎす今こそ鳴かめ友に遇へる時
(大事な友が来ているのだから、ほととぎすよ今こそ来て鳴いておくれ)

 書持くんは、山の萩を庭に移植したりして、ガーデニング大好きだったらしい。
 花鳥風月を愛する天平時代の兄弟の歌です。

 746年うるう7月、家持は越中に赴任します。
 そして9月、ある知らせが家持の所に届きます。

 嘆き悲しんで家持くんの作った長歌
3957番
*天ざかる 夷治めにと 大王の 任まけのまにまに
   出でて来こし 我を送ると 青丹よし 奈良山過ぎて
   泉川 清き河原に 馬駐とどめ 別れし時に
   好去まさきくて 吾あれ還り来む 平らけく 斎いはひて待てと
   語らひて 来こし日の極み 玉ほこの 道をた遠み
   山川の 隔へなりてあれば 恋しけく 日け長きものを
   見まく欲り 思ふ間に 玉づさの 使の来ければ
   嬉しみと 吾あが待ち問ふに 妖言およづれの 狂言たはこととかも
   愛はしきよし 汝弟なおとの命みこと 何しかも 時しはあらむを
   はたすすき 穂に出づる秋の 萩の花 にほへる屋戸を
   ( 言フハ、斯ノ人、花草花樹ヲ好愛コノミテ多ク寝院ノ庭ニ植ヱタリ。故レ花薫フ庭ト謂ヘリ)
   朝庭に 出で立ち平ならし 夕庭に 踏み平らげず
   佐保の内の 里を往き過ぎ
   (佐保山ニ火葬ヤキハフリセリ。故レ佐保ノウチノサトヲユキスギト謂ヘリ)
   足引の 山の木末こぬれに 白雲に 立ち棚引くと 吾あれに告げつる

 弟の書持くんが死んでしまったのですね。
 自分が越中に赴任する7月には、馬に乗って見送ってくれたのに。
 無事に帰って来るから神に祈って待っていてくれと別れたのに、、、。
 (  )の中は、歌の中に、家持が書いた説明。自分たち兄弟を知らない人、時空を超えて未来にもこの歌を読む人へ、弟はこんな人だったという説明です。

反歌
3958番
*まさきくと言ひてしものを白雲に立ち棚引くと聞けば悲しも
(無事でいてくれと言ってくれていたのに、白い雲になってしまった弟、、)
3959番
*かからむとかねて知りせば越の海の荒磯の浪も見せましものを
(このようになると知っていたならば、呼び寄せて越中の海の浪を見せてやったのに)

 天平18年、9月25日に、家持が遥かに弟の死を知って悲しんで作った歌たちです。
 大昔の人なのに、言葉の媒介によって今の私たちにもその心がひたひたと感じられます。

 万葉集ってすごい! 
 
2012年1月22日
今週のNHKラジオ第2放送、上野誠先生の「万葉集」は、柿本人麻呂の長歌でした。

 天武天皇の皇子、高市皇子が696年に43歳で亡くなった時の歌で、149もの句で構成されている、万葉集中最大の長歌だそうです。
 高市皇子は、天武の第一皇子だったけど、母親が皇族でなかったために、皇位に着く可能性が低かったため、権力者たちにとって安心して使える人材だったらしい。

 672年の壬申の乱の折りには、19歳で軍の先頭となって働き、草壁皇子死後、持統四年には太政大臣となりました。この位は、行政官としてのトップの位なのだそうです。

 日本の長歌は、人麻呂の持統朝にピークを迎え、以後の日本の詩歌は、全て人麻呂の真似と言っても良い、と多くの研究者が言っているらしい。
 まさに、日本の詩歌の原点が、万葉家人の人麻呂にあったのですね。

 
 では、その長い長い長歌を。
199番
 高市皇子の城上(きのへ)の殯宮(あらきのみや)の時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首 并せて短歌

*かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏(かしこ)き 明日香の 真神(まかみ)の原に ひさかたの 天(あま)つ御門(みかど)を 畏くも 定めたまひて 神さぶと 磐隠(いはがく)ります 

 やすみしし 我が大君の きこしめす 背面(そとも)の国の 真木立つ 不破山越えて 高麗(こま)剣(つるぎ) 和射見(わざみ)が原の 行宮(かりみや)に 天降(あも)りいまして 

 天の下 治めたまひ 食(を)す国を 定めたまふと 鶏(とり)が鳴く 東(あづま)の国の 御軍士(みいくさ)を 召したまひて ちはやぶる 人を和(やは)せと まつろはぬ 国を治めと 皇子(みこ)ながら 任(ま)けたまへば 大御身(おほみみ)に 大刀(たち)取り佩(は)かし 大御手(おほみて)に 弓取り持たし 御軍士を 率(あども)ひたまひ 整ふる 鼓(つづみ)の音は 雷(いかづち)の 声と聞くまで 吹き響(な)せる 小角(くだ)の音も 敵(あた)見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに 差上(ささ)げたる 幡(はた)の靡きは 

 冬こもり 春さり来れば 野ごとに つきてある火の 風の共(むた) 靡くがごとく 取り持てる 弓弭(ゆはず)の騒き み雪降る 冬の林に 旋風(つむじ)かも い巻き渡ると 思ふまで 聞きのかしこく 引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱れて来(きた)れ まつろはず 立ち向ひしも 

 露霜の 消(け)なば消ぬべく 去(ゆ)く鳥の 争ふはしに 度会(わたらひ)の 斎(いつ)きの宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇(とこやみ)に 覆ひたまひて 定めてし 瑞穂(みづほ)の国を 神ながら 太敷きまして 

 やすみしし 我が大君の 天の下 奏(まを)したまへば 万代(よろづよ)に 然(しか)しもあらむと 木綿花(ゆふはな)の 栄ゆる時に 我が大君 皇子の御門を 神宮(かむみや)に 装(よそ)ひまつりて 使はしし 御門の人も 白栲(しろたへ)の 麻衣着て 埴安(はにやす)の 御門の原に あかねさす 日のことごと 獣(しし)じもの い匍ひ伏しつつ

 ぬば玉の 夕へになれば 大殿(おほとの)を 振りさけ見つつ 鶉なす い匍ひ廻(もとほ)り 侍(さもら)へど 侍ひえねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 憶(おも)ひも いまだ尽きねば 言(こと)さへく 百済(くだら)の原ゆ 神葬(かむはぶ)り 葬(はぶ)りいませて 

 あさもよし 城上(きのへ)の宮を 常宮(とこみや)と 高くまつりて 神(かむ)ながら 鎮まりましぬ しかれども 我が大君の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具(かぐ)山の宮 万代に 過ぎむと思へや 天(あめ)のごと 振りさけ見つつ 玉たすき 懸けて偲はむ 畏(かしこ)くあれども(2-199)

短歌 (二首)

*ひさかたの天(あめ)知らしぬる君ゆゑに日月も知らず恋ひわたるかも(2-200)

*埴安の池の堤の隠沼(こもりぬ)の行方を知らに舎人(とねり)は惑(まと)ふ(2-201)

或書の反歌一首

*哭沢(なきさは)の神社(もり)に神酒(みわ)据ゑ祈(の)まめども我が大君は高日知らしぬ(2-202)

 昔のテキストに、なぜ「反歌」と言わずに「短歌」にしたか、といえば、宮廷歌人としての歌ではなく、人麻呂個人としての思いを残したかったからではないか、と書いてありました。
 天智天皇の軍と戦った壬申の乱から始まって、長い長い歌。個人的にも、その死を惜しみたい、人麻呂にとっての高市皇子だったのでしょうね。

2012年1月29日
 人麻呂は、政府の要人の挽歌を依頼されて作ったものも有名だけど、私的な挽歌、別れの寂しさを歌った長歌もすぐれているそうです。
 亀井勝一郎は「人麻呂は挽歌的歌人である」と語ったそうです。 

 赴任先から都に帰る時に、石見の妻(最後の妻という説あり)との別れを詠んだ長歌。

131番
  石見の海(み) 角(つぬ)の浦廻(うらみ)を
  浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ
  よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも
  鯨魚(いさな)取り 海辺(うみへ)を指して
  渡津(わたづ)の 荒礒(ありそ)の上に か青なる 玉藻沖つ藻
  朝羽振(はふ)る 風こそ来寄せ 夕羽振(はふ)る 波こそ来寄せ
  波の共(むた) か寄りかく寄る 玉藻なす 寄り寝し妹を
  露霜(つゆしも)の 置きてし来れば
  この道の 八十隈(やそくま)ごとに 万(よろづ)たび かへり見すれど
  いや遠に 里は離(さか)りぬ いや高に 山も越え来(き)ぬ
  夏草の 思ひ萎(しな)えて 偲(しぬ)ふらむ 妹が門見む 靡けこの山

(自分がこんなに思っているのだから、妻もきっと同じ思いでいるはずだ、との強い思いが、「靡けこの山」に表われている、そうです。

反歌二首
132番
*石見のや高角(たかつぬ)山の木(こ)の間より我(あ)が振る袖を妹見つらむか
(私が別れを惜しんで振る袖を、妻は見たであろうか。別れても心はつながっている。) 
 スケールの大きな別れ歌。

133番
*小竹(ささ)が葉はみ山もさやに乱れども吾(あれ)は妹思ふ別れ来(き)ぬれば
(山に入り、妻の国が見えなくなった時の寂寥。目で笹の動きを見、耳で笹のさやぎを聴く。
 このように、堂々とした長歌と繊細な反歌の組み合わせが、人麻呂の妙!なんですって!

或ル本ノ反歌
134番
*石見なる高角山の木の間よも吾(あ)が袖振るを妹見けむかも
(132番の「らむ」強い推量と比べて「妹は見ただろうか?」というちょっと弱気な人麻呂くんの歌。


次は、人麻呂が最初の?妻の死にあたって「泣血哀慟」して作った歌です。

207番
天飛ぶや 軽の道は 我妹子が 里にしあれば ねもころに 見まく欲しけど
  やまず行かば 人目を多み 数多く行かば 人知りぬべみ 
 さね葛 後も逢はむと 大船の 思ひ頼みて 玉かぎる 岩垣淵の 隠りのみ 恋ひつつあるに 
 渡る日の 暮れぬるがごと 照る月の 雲隠るごと 沖つ藻の 靡きし妹は 黄葉の 過ぎて去にきと
 玉梓の 使の言へば 梓弓 音に聞きて 言はむすべ 為むすべ知らに 音のみを 聞きてありえねば
 我が恋ふる 千重の一重も 慰もる 心もありやと 
 我妹子が やまず出で見し 軽の市に 我が立ち聞けば 
 玉たすき 畝傍の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず 玉桙の 道行く人も ひとりだに 似てし行かねば
 すべをなみ妹が名呼びて 袖ぞ振りつる

(奈良県高市の軽の里にいた妻、人に目立たないように会っていた妻が死んでしまった。
 妻がよく来ていた軽の市に行ってみるけれど、声は聞こえず似た人もいない)

反歌
208番
*秋山の黄葉を茂み惑ひぬる妹を求めむ山道知らずも

209番
*黄葉の散り去くなへに玉梓の使を見れば逢ひし日念ほゆ
(玉梓の使い=逢うための連絡をとりあうのに使っていた使い)

 人麻呂は、俳優のように、自分の体験を歌にして、人々の前で語っていたのかも?
 それにしても、どの歌も、直裁であり、大きくてしかも繊細!
 やっぱり万葉集随一の歌人と言えますね。
 
2012年2月5日
 今週の、NHKラジオ第2放送、古典講読の時間の上野誠先生の「万葉集」は、万葉第3期の歌人、笠金村と、山辺赤人の歌でした。

 初めに笠金村。230番は、彼の儀礼歌の中でも、もっとも早い時期のものらしい。

―霊亀元年歳次乙卯秋九月、天武天皇の皇子、志貴親王の薨せる時、よめる歌一首、また短歌

230番
  梓弓 手に取り持ちて 大夫の 幸矢(さつや)手挟み立ち向ふ 高圓山に 春野焼く 野火と見るまで
  燃ゆる火を いかにと問へば 
  玉ほこの 道来る人の
  泣く涙 霈霖(ひさめ)に降れば 白布の 衣ひづちて立ち留まり 吾に語らく 何しかも もとな言へる
  聞けば 哭のみし泣かゆ 語れば 心そ痛き
  天皇の 神の御子の 御駕(いでまし)の 手火(たび)の光そ ここだ照りたる


231番
  *高圓の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに

232番
  *御笠山野辺行く道はこきだくも繁く荒れたるか久にあらなくに

右ノ歌ハ、笠朝臣金村ノ歌集ニ出デタリ。或ル本ノ歌ニ曰ク

233番
  *高圓の野辺の秋萩な散りそね君が形見に見つつ偲はむ

234番
  *御笠山野辺ゆ行く道こきだくも荒れにけるかも久にあらなくに

次に、入唐使に贈るうた。
1453番
―天平五年癸酉春閏三月、笠朝臣金村が入唐使に贈れる歌一首、また短歌

  *玉たすき 懸けぬ時なく 息の緒に 我が思ふ君は うつせみの 世の人なれば 大王の 命畏み
  夕されば 鶴が妻呼ぶ 難波潟 御津の崎より
  大船に 真楫(まかぢ)繁(しじ)貫き 白波の 高き荒海を 島伝ひ い別れ行かば 留まれる 吾は幣(ぬさ)取り
  斎(いは)ひつつ 君をば待たむ 早帰りませ

反歌
1454番
  *波の上よ見ゆる児島の雲隠りあな息づかし相別れなば
1455番
  *玉きはる命に向ひ恋ひむよは君が御船の楫柄(かぢつか)にもが
(離れて恋うよりは、あなたの船の櫂になりたい)

次に、もう一人の第3期を代表とする歌人、山辺赤人の有名なうた。

317番
*天地(あめつち)の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴(たふと)き 駿河なる 富士の高嶺(たかね)を 天(あま)の原 振り放(さ)け見れば 渡る日の 影も隠ろひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行(ゆ)きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎゆかむ 富士の高嶺(たかね)は

反歌
318番
*田子(たこ)の浦ゆ打ち出(いで)て見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける

古の都を旅して、昔を懐かしみつつ、そこに都を築いた天武、持統の天皇の素晴らしさを讃えて、、、
対句を駆使して、どこもかしこも、みんな良い!と。

324番
*みもろの 神なび山に 五百枝さし しじに生ひたる 栂の木の いや継ぎ継ぎに 玉葛 絶ゆることなく ありつつも やまず通はむ 明日香の 古き都は 山高み 川とほしろし 春の日は 山し見がほし 秋の夜は 川しさやけし 朝雲に 鶴は乱れ 夕霧に かはづは騒く 見るごとに 音のみし泣かゆ いにしへ思へば

325番
*明日香河 川淀さらず 立つ霧の 思ひ過ぐべき 恋にあらなくに

923番 
*やすみしし 我ご大君の 高知らす 吉野の宮は たたなづく 青垣隠(あをかきごも)り 川なみの 清き河内ぞ 春へは 花咲きををり 秋されば 霧立ちわたる その山の いやしくしくに この川の 絶ゆることなく ももしきの 大宮人は 常に通はむ

924番
*み吉野の象山の際の木末にはここだも騒ぐ鳥の声かも

925番
*ぬばたまの夜の深けゆけば久木生ふる清き河原に千鳥しば鳴く

923番では、政治が安定して吉野の離宮に大宮人が足繁く訪れることができる、という公のうた。
 その反歌は、私的な旅情の歌となっているそうです。

 昔のテキストに、家持くんが「昔の人も忍び来にけれ」と、赤人くんのことを歌った歌が書いてありました。
 924番、925番は、旅情の湧き出ている名歌なんでしょうね。
 日本人の魂のふるさとみたいな感じ。高円山に三笠山!大和が私を呼んでいます!
 

 





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